小説「人間失格」の深読みし過ぎブックレビュー

人間失格のイメージ 小説のレビュー
小説人間失格のイメージ

太宰治3つの不幸とは

私のブックレビュー

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このブックレビューでは、太宰治の愛と不幸を目の当たりにして、私がどう感じたか、不幸の原因は何か、どうすればよかったのか等について書いています。

人間失格の不幸や悲しい愛は、とても美しく魅力ある芸術だと思います。しかし、このブックレビューでは不幸をそのまま不幸として捉え、ともに悲しむ立場を取っています。

また、人間失格はフィクションですが太宰治の人生を色濃く反映したものであるため、便宜上主人公のことを太宰治と呼んでいます。

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小説を読んで感じたことを思いきり発散しています。ネタバレありです。むしろネタバレしかありません。このページは、人間失格を読んでから…がおすすめです。この人間失格のブックレビューは、8500文字ほどの長い文です。読書会の様にお話したいので、コメントを頂けると嬉しいです。

ネタバレありなので、事前に人間失格を読まれることをおすすめします。kindle版は無料で読めます。(スマホにkindleアプリを入れれば、kindle本体を持っていなくてもOKです)

人間失格のテーマ

私が思う人間失格のテーマは、「本当の愛」と「不幸」です。本当の愛を必要としながらも、様々な不幸に阻害されて結局叶わなかったという悲哀の小説だと感じました。

太宰治が最も恐れていたのは、本当の自分が周囲にばれてしまい、罵られたり罰せられたりすることでした。そして、太宰治に最も必要だったのは、本当の自分がばれたうえで愛されることでした。 私は、これが人間失格のテーマだと思います。

私は、「本当の自分」とは長所も短所も含めたものだと思います。しかし、この太宰治を含む多くの人々は、短所をもって「本当の自分」と認識してしまいます。

それは無理もないことで、長所など人はみな隠しもしないから知られていて当然だし、長所を褒めたり受け入れられたとしても「自分を受け入れてくれた」と意識することは難しい。

逆に、短所を知られることは恐ろしく勇気のいることで、それを乗り越えて短所を知らせた人々のなかから、更に極わずかな人が「短所を含めた自分を愛してくれる」という奇跡に恵まれるのです。短所を受け入れられる時の緊張とインパクトと快感が、強烈なため、「短所こそ自分」と勘違いしやすいのではないだろうかと思っています。あくまで、私個人の考えですが。

最後のママのコメントは、「天使のようだと外面を愛されたけれど、本当の自分を愛されることは、ついぞ死ぬまでなかった。」という悲しい現実を示しているように、私は感じました。

年をとってどんどん人間として生きるための技術が磨かれ、人間への不安が少しずつ減っていても、その根本的な問題は解決されなかった。むしろ、処世術を身に着けるほどに、分厚い武装をしているようなものだから、「本当の自分を愛してもらう」ことからは、どんどん離れていく。子供の頃の方がまだ隙があって、本当の自分を愛されるチャンスがありました。「竹一」に、本当の自分がばれたときが、最大のチャンスでした。

太宰治の3つの不幸

太宰治の病気のイメージ
太宰治はパーソナリティ障害だった?

太宰治が人間失格で苦悩の日々を歩んだ原因は以下の3つにあります。

  • パーソナリティ障害
  • 不幸な事件の数々
  • 女性への嫌悪感

太宰治は、様々な精神病に侵されていたと私は感じました。実際に、最後は精神病棟に入院させられています。 (※医者ではない素人の主観です。)

生まれたころから、感情や味覚が欠落し、なにより離人症・パーソナリティ障害などが強烈に主人公を苦しめていました。それらが先天的なものなのか、性的虐待や親の愛情不足による後天的なものなのかはわからない。きっといろいろな原因がめちゃくちゃに絡み合って、太宰治を襲っていたのでしょう。

汽車がなんたるかもわからないほどの時代なので、精神病についての研究はろくに進んでいなかったはず。

もっと早く、現代のレベルの病院で適切な治療を受けていれば、ここまで悲惨な人生にはならなかったかもしれません。 少なくとも、性的虐待をうけてすぐカウンセリングをすべきでした。

しかし、2021年現在でようやく精神病の研究が進み、差別感情がやわらいできたくらいです。この時代にそのような適切な処置は望めるはずもありません。太宰治はこの恐ろしいトラウマに医師の助けもなく、一人で立ち向かうしかなかったのです。

パーソナリティ障害

私は、太宰治はパーソナリティ障害ではないかと推測しています。パーソナリティ障害とは、他の人と違う反応や行動をしてしまうことに苦しむ精神障害です。詳しくは、「パーソナリティ障害とは」などのワードで検索してみてください。

「人間」がわからない
「世間」がわからない

そういう世間の気持ち悪さと恐怖と恥に、人生まるまる苛まれ続けた。私には、太宰治がパーソナリティ障害に人生を捧げてしまったように見えます。皆が当然のようにわかっていることが、太宰治にはわからない。それに負い目を感じているから、どんな場でも敗北者であり続け、おどおどとしていた。その内心のおどおどをも恥じているので、最後のちいさなプライドで、「なんとも思っちゃいませんよ」と茶化すような面もあります。

人間失格は、太宰治の視界で人生を丸ごと読者が体験するような構成です。人と違う歪んだゴーグルを付けられたような状態で、七転八倒しながら歩き続ける。私にとっての人間失格は、ホラーであり、グロテスクであり、犯人に生涯辿り着けないサスペンスのようでした。

常に完璧な正解を探してしまう

太宰治は、常に自分は人間として正解なのだろうか?ということを確認し、不正解を極度に恐れて生きてきました。「僕は獅子舞がほしいとお父さんに言うのが正解なのかしら。」「ここでは笑うべきかしら。」不正解を選べば、相手から手ひどい罰を与えられると感じてしまいます。

私は軽度のパーソナリティ障害のためこれに似た感覚があるので、逆に、他の人はどのような気持ちで生きているのかわかりません。人々は、毎回「私は正しい!」と自信に満ちているのだろうか、それとも、「私は間違ってもかまわないくらいのいい身分なの」という考えで、堂々と生きているのだろうか。

太宰治は、あまりに自分以外の者が堂々としているものだから、全て自分が間違っていて、世間の人は全員正しいのではないかと錯覚してしまいます。もちろん、冷静になればそれは間違った認識だと頭では分かるのですが、その間違った感覚に頻繁に見舞われてしまいます。そういう「堂々とする才能」「人に怒り狂う才能」「世渡りの才能」といった、人間としてあるべき性能が欠落した欠陥品だと自覚するたびに足元からぐにゃぐにゃと世界が歪むような不快感が太宰治を襲い…

はたから見れば、誠実で正直であることや、温厚なこと、人を騙さないことなどは全て美徳でもあるのに、それら美徳がことごとく太宰治の生き辛さを加速させていくのが悲しい。

繊細さは罪か?HSPとは?

完璧な正解を探しながら生きていくということには、大きな負担が伴います。きっと、多くのパーソナリティ障害なんて関係のない健康な人達は大人になるにつれて「60点くらいの回答でいいだろう」という諦めや図太さを身に着けるのだと思います。それが出来なければ、「ネガティブだ」「ナイーブだ」「気にしすぎだ」「面倒だ」と罵られて肩身が狭い思いをします。だから、太宰治も必死で気にしていない風を演じて身を守っていたのかもしれません。

私はその諦めを身に着けることに失敗しました。太宰治もあきらかに完璧な正解を探してしまって、それゆえにもっと酷い目にあったりしています。ただ、最近では「繊細ではなくなる」ことが単純な「諦め」や「大人になった」、「素晴らしいこと」といった言葉では片付かないものだと私は感じ始めています。「HSP」という、産まれつき繊細な、神経が敏感な人が多く存在することが分かってきたからです。約5人に1人はそのHSPに該当し、赤ちゃんの時の反応からして大きい違いがあるそうです。太宰治がパーソナリティ障害だというのは私が勝手にしている推測ですが、HSPの方はかなり可能性が高いと思います。(HSPは生き辛いですが、病気ではありません。)

「太宰治に焦がれていた繊細な思春期は、とっくに卒業したよ」といったレビューは、例外が多いと言えそうです。

脱線:私の「正解探し」

私は、選択肢を考えうる限り頭から絞り出して正解を選ぼうとしてしまいます。そのため、のろまで疲れやすいと思われやすく、よく悲しい思いをしています。どう考えても、世間の人々は「正解の選択肢」という概念すらなく、幸せに日々を過ごしているように見えます。他の人が2択くらいをパッパと判断している時に、私は6..7..択以上を5項目くらいで比較しているので、脳の回線をブチブチと焼き斬らせているような感触があります。

あるいは、私の脳に欠陥があって、本当に人よりも処理が遅いのかもしれません。

自分は人より不幸なのではないか?

人々にもいろいろ苦しみはあるだろうけれど、どうしても自分からは楽そうで幸せそうに見える」という記述は、現在苦しい思いをしている人にとても共感されるものだと思う。私もいろいろと苦しい病気などがあったので、おおいに共感しました。

この「どうも他の人はそれほど辛くないようだ」という感覚に、似た体験をしたことがあります。私が意を決して病気に苦しんでいることを打ち明けると、「私もくるしいの、いっしょに我慢しましょう。」と言われ、心底がっかりしたのです。その時の私は、本当にいまにも自殺しそうな崖っぷちに立たされたような気持ちだったので、目の前でお茶を飲んでニコニコしている友人がまさか同じくらいに苦しいとは信じられない。

彼女は、私の苦しさをあまり理解しないまま、会話を切り上げようとしているように見えました。

不幸な事件

それにしても、太宰治の人生は不幸な事件が多い。読んでいてこちらが疲れてしまう程に不幸の連続です。もちろん、さして貧乏ではないし女性にモテるのだから、他人からはうらやましがられていたかもしれません。しかし、そんないたって平和な表面の裏で、幼い頃に性的虐待をうけたり、味覚を感じないのに美味しそうなふりをしたり、怯えながら道化を演じたり。幼い子供が人に見えない所で大きなストレスを抱えている描写に、心が痛くなりました。

太宰治が必死に不安やトラウマを隠して生きていても容赦なく更なる不幸に見舞われるのが、読んでいて本当に苦しい。私はハッピーエンドが好きなので根本的にこの本には向いていないのですが、耐えながら読みました。不幸に次ぐ不幸。この本を読むのに耐えたところで、幸せな結末などない。人間失格を読むときには、私の精神面が安定している時でないと暗闇に持っていかれるとさえ思う、人間失格は強力な影を持つ作品でした。

男を恐れ女を嫌悪した

太宰治の女性のイメージ
女性への嫌悪感と愛憎

太宰治は物心ついたときから、父をはじめ男性を恐れていました。「父が亡くなったときいて苦悩の壺がからっぽになった」という記述のとおり、父への恐怖は太宰治の心の大半を占めていた様です。一方、太宰治は不思議と女性に愛され、しかし、自身は女性をうっとうしく思っていたことが、小説の端々に見て取れます。生まれつきなのか、幼い頃に何かされたのか…

軽症者への嫉妬

女がヒステリーを起こした時は、甘いものをやるだけでいいという記述があります。太宰治は、「そんなに簡単なことで直るようなヒステリーを自分のうちに秘められないものか」と、うっとおしく感じている様子。

たぶん太宰治は、柿ひとつで治る程度の軽症で、他人に助けを求めて騒ぎ立てられる甘ったれた精神がうらやましいのです。自分が他人に助けを求めることが出来ないのは、彼女と関係のないことなのですが。

現代でもよく見られるのですが、病気の人は自分より軽度の病人を目の敵にすることがあります。「俺の方がつらいのに騒ぎ立てるな!」と。気持ちはわかりますし、私にも経験があります。身近な中で嫉妬しあうのは自然な心理です。しかし、冷静になると病人同士でいがみあうのは何とも悲しいことです。

「女というのはわからない」というだけでなく、わざわざ「みみず」なんて醜いものと比べるところにも、嫌味がある。本人に自覚があるとおり、彼は女のことなんて何一つわかっていないのですが、ただただ嫌悪感があってどうしようもないのでしょう。

女性への嫌悪感がありながら、女性を転々と頼ることでしか生きられないやるせなさ。本当に女性を愛したこともあったが…生涯を通して、太宰治の女性関係はめちゃくちゃでした。どうしようもないヒモなのですが、破天荒な女性関係は人間失格の魅力の一つです。

彼はヒモになりたくてなったわけではない、むしろ自立出来ない状態に強いストレスを抱えています。しかし、友人達からは「美女に囲まれ、金まで貰ってなんて要領のいいやつだ」といったひょうひょうとしたろくでなしに見えます。太宰治の内面の葛藤などわかるはずもなく。表面だけを見て嫉妬され、いまいましく思われてしまうのがまた、本人の苦しみと外界のギャップで、読んでいて不安がつのりました。

脱線:人間失格の実写化

人間失格は何度か実写化されているのですが、太宰治のクレイジーな女性関係や色っぽさに焦点をあてているのは、2019年の映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」です。蜷川実花監督、小栗旬主演と豪華な顔ぶれ。また違った人間失格の解釈を見せてくれそうです。

2010年には、生田斗真主演でも映画化されています。レビューによると、こちらの方がもう少し原作に近い様です。

「かえる化現象」と人間関係

あるいは、太宰治の女性嫌悪は「かえる化現象」のせいかもしれなません。かえる化現象とは、自分を愛するものを信じられず嫌悪するという精神の働きです。自己肯定感が低すぎるとか、愛を失った時を憂う不安のせいだとか理由は様々です。

私にも経験がありますが、私の場合は自分が世界で一番嫌悪する「自分」を愛するこの人物は、とても恐ろしく気持ちの悪いものだという認識が消せなくなりました。吐き気さえして、恋人と一緒にいることが困難になります。そして、恋人に触れられて「気持ち悪い」と思ってしまう自分を嫌悪するという悪循環にはまりました。

太宰治は、馬鹿の竹一や白痴の淫売婦など、見下したものとのほうが安心してコミュニケーションできていました。自分のことも見下しているから、太宰治の中では釣り合いが取れているように感じるのかもしれません。

作中に、「非合法のほうが安心する。生まれた時から、日陰者・犯罪者のような意識がある」という記述がありました。私にとって人間失格は、太宰治が精神病に蝕まれ、自分を嫌悪して罰し続ける悲しい小説でした。

脱線:なぜ女性が甘いものでご機嫌になるか
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なぜ女性は甘いものでご機嫌になる?
女性の体調とホルモンバランス

現代医学では、女性のホルモンバランスや体調の激変や生理痛・更年期による人生の阻害が解明されてきました。生まれてからずっと、男よりもずっと激しい体調の波にさらされてきて、毎日毎日自分のご機嫌をとるのに必死な女性も少なくありません。

私は、「柿ひとつでなおる程度のこと」ではなく、「自分だけで耐え続けていたことに、他者が柿で応援してくれた。」ということに意味があるのだと思います。もちろん、女性のご機嫌取りに甘いものが有効なのは否定しません。血糖値を上げるのは有効な手段です。とにかく大事なのは「ご機嫌取りという難題に、他人が寄り添ってくれた。」という事実なのです。

きっかけとしての甘いもの

喧嘩をしても甘いものでコロッとご機嫌になる女性を侮る者もありますが、本当に「甘いから」ご機嫌になるわけではない場合もあります。「相手の仲直りしたい意図」をくんでご機嫌なモードに切り替えるという女性の方が多いと思います。ここらで、丸く収めておくかというスイッチの役割です。

だいたい、ご機嫌取りに立派なものが必要な方がタチが悪い。極論はかぐや姫です。一生ご機嫌な女性を見られなくなっては困りますよね。

太宰治も分かっている通り、彼の問題は柿なんかでは解決しない。だからうらやましく、悔しい、いまいましいのかもしれません。世の中には柿ひとつで解決できる問題などほとんどないのですから。

人間失格のブックレビューまとめ

このブックレビューでは、人間失格は太宰治の愛と不幸の物語だと書きました。私は、人間失格を読む前には芸術肌の破天荒な人生の話で、とても自分には関係ない小説だろうと思っていました。映画やレビューでも派手な女性関係や自殺未遂について取りざたされていたので、無理もないことです。

しかし、実際に人間失格を読んでみると人間の苦悩そのものの物語で、対人不安についてはパーソナリティ障害ではなくても共感できる部分は多いものでした。

人間失格の最後に「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」とあります。これをどう解釈したものか、と悩みました。

やっと苦悩を手放して小さな幸せを手に入れた様にも見えます。しかし、私はこの人間失格が完成してすぐに太宰治が自殺を完遂したという事実も加味して考えてみました。太宰治が恐怖したのは何か、どういった幸福をもとめていたのか、この言葉の真意とは何でしょうか。

太宰治の求めた幸福

太宰治が求めていた幸福は、度々手に入りかけては、暴力的に奪われてしまいました。私は太宰治の幸せは、①恐怖が無くなること②愛する家族と支えあうこと、③自分の能力で稼ぎ自信を得ること、の3つだったと思います。

①恐怖が無くなる

①は、父親が亡くなったことで、ほぼ叶いました。父親に手酷いことをされていた訳でも無いのに、太宰治も意外だったと書いています。残る不安も、全て失ったことで解消します。

②愛する家族と支えあう

②は、何度か手に入れかけるのに、妻がレイプされるなどの不幸な事件によって失います。この、手に入れかけた幸福がとても温かいがゆえに、失った時の破壊力はすさまじいものでした。

③自分の能力で稼ぎ自信を得る

③は、絵や漫画で暮らしていけそうで叶わないもどかしさがありました。

「幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」の意味

最後に狂人の烙印をおされ、人気のないあばらやで飼い殺しにされる生活となると、②③の幸福には手が届かない。それが明白になったことで、太宰治はプレッシャーから解き放たれたように見えます。悟りをひらく、欲しがらない、といった境地に至ったのでしょう。醜いテツと夫婦の様に喧嘩したり笑ったりして暮らす日々は、望んだ幸せではないけれど、不幸でもない。人生で初めてニュートラルな感覚を持てたのかもしれません。

これでやっと太宰治は小さな幸せを掴んで生きていくのかと思ったのに、現実の作者の太宰治は自殺してしまいます。自殺の理由は、「同じく自殺した芥川龍之介に憧れていたから」「息子のダウン症に苦悩したから」などと噂されていますが、彼の遺書には「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」とあります。

小説の太宰治は、腑抜けて何も努力しない(努力しようがない)状況になって終わります。現実の太宰治は、ライフワークである「小説」を嫌になり手放すことで自殺を決意しました。この2つの終わりに共通するのは、生きる気力を失ったという点ではないでしょうか。

そう考えると、「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」というのは、やっと安心できたというよりも、何もかも失ったというニュアンスを強く感じます。自分と世間に失望して、ただ時が過ぎるのを傍観者として見送る世捨て人になったのでしょう。破天荒でがむしゃらに耐えて耐えて生きてきたのに、手元に何も残らなかったという諸行無常の虚しさがあります。太宰治は、小さな幸せを見つけたという意味も少し込めたかもしれません。しかし、主としては生きる気力を失ってしまったという失望の意味で書いたのではないでしょうか。

太宰治は、小さな幸せだけでは生きられなかったのです。

脱線:遺書と心中と愛人

私は、現実にいたらと思うと、やはり太宰治はいけすかないモテ男にしかみえないでしょう。正妻に「誰よりも愛していました」と遺書を残して愛人と心中したそうですが、酷い人です。私が愛人なら「私は2番目だから死んでもいいと思っているのね」と思い、正妻なら「誰よりってことは2番目と比較しているのね」と思うのではないでしょうか。でも、そう思わせない太宰治の魅力があるのでしょう。

実際、私が人間失格を読んでいるときは愛人たちの悲しみなどには目もくれず、太宰治の苦しみに寄り添ってしまい、客観性などまるで保てませんでした。

参考:一般的なレビューまとめ

レビューサイトをざっと見て要約すると、以下になります。(私はこれらに共感しているわけではありません。)

  • 人間失格というタイトルだが、むしろ太宰治の人間らしさを書いた小説
  • メンタルが弱い人の話で、自分は共感出来なかった
  • 繊細で多感な思春期に読むと共感するが、大人になるとちょっと自分に酔っている様で恥ずかしい
  • 人を極端に恐れ、自分を軽蔑している
  • 思春期には共感したけど、大人になってまた読んだら共感しなくなっていた。自分もどこかで諦めて大人になったのだろう
  • 自分探しがテーマ
  • 女性との愛憎の話

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